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26年が過ぎ、27年目が始まる 15 

西大路五条の事務所は、いわゆる一般的なマンションであった。
この事務所を選ぶときにいろいろと候補を選んだが、テナントビルの場合保証金や何やらで移動する時点にかなりの出費が必要だが、アンションの場合敷金と礼金を合わせても、50〜60万もあれば何とかなるということで、その分を家具や設備で使おうと考えた。
結果的にこれが大正解。
事務所使用がOKのマンションは意外とたくさんあって、(うちの業務のように通りがかりの客が出入りするようなことがないことが条件である場合が多い)広さも大小様々であったが、その中で一番広そうなところを選んだ。
3LDKで5.5畳、6畳、6畳、15畳にもちろんキッチンと風呂場や脱衣スペースがあるので今までの事務所よりも広い。
しかも敷地内に駐車場もあり、自転車置き場もある。

なぜもっとこの方法を考えなかったのだろうかと、今更ながら後悔した。
家賃もほとんど同じ15万。
若干駅までが(阪急西院・京福西院)歩くと少しかかるが、以前に比べれば圧倒的に近い。
ましてや私の自宅からは車なら約5分、歩くことだって可能だ。
大阪や神戸に行くときは、割り切ってJR西大路駅まで出ることにした。阪急よりもその方が速いからだ。

そしてもう一つ、意外なメリットがあった。
靴を脱いで仕事ができるということだ。
事務所設立当初のあの狭いワンルームマンション以来ずっと土足のままの事務所であったが、マンションなので当然靴を脱ぐ。これは非常に楽だった。
ちゃんと家庭用のキッチンもあるし、風呂だってある。
ただ、事務所で風呂に入るのもどうかと思い、ここは割り切って物置とした。

さらにもう一つ今までなかったのが和室だ。たった6畳ではあるけれどベランダに続くなかなか良い感じの和室だ。
ここには通販の安物ではあるけれど茶箪笥と階段状の箪笥を置いた。
ついでに我が家にあった明治期の茶箪笥も持ち込み、完全にその気になっていた。
私の骨董好きが火を噴いたのもこの頃だ。
和室の箪笥類はすぐに骨董でいっぱいになってしまい、ほとんど毎週オークションで落札した古伊万里が事務所に届くようになった。

ギターを買いあさるようになったのもこの頃からだ。少しは広かった事務所もすぐにギターに占領される始末だ。
マーチンの日本総代理店である黒沢楽器が取材に来たのもこの頃だ。
2年ほどの間に6本もマーチンのユーザー登録をしたので目にとまったらしい。

カメラの収集もこの頃からだった。まだ仕事ではフィルムが主流であったので、仕事で撮影をするということはそれほどなかったけれど、取材や資料用には撮影機会も増えていた。そこへデジタルの波がやってきたものだから、デザインの仕事がアナログからデジタルに移行したのと同じことが確実に起こると踏んだ私は早速デジタルの一眼を入手し、仕事で使うようになった。今では商品撮影やロケなど様々な場面で撮影をこなすが、この頃がそのスタートだったのだ。

引っ越しも一段落し、売り上げもあの大事件からほぼ立ち直ってきていた。
そうなるとやはり人手不足の問題が再燃してきた。
かといってすぐに人を雇うというのもやはりリスキーである。
そこでこの頃頻繁に外注を使うようになっていた。外注なら仕事のあるときだけ出せばいいと思ったからだ。
しかしこれは後々大きな間違いであるということに気づくときが来るのであった・・・・・。

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26年が過ぎ、27年目が始まる 12 

北大路通りに面した事務所は今までよりもずいぶん広いと感じた。
烏丸の時は10坪と聞いていたが、実際はきっと8坪程度だったのであまりにも狭かったが、今回はちゃんと不動産屋を通したので図面もあったから15坪というのも信憑性があった。

各フロア1店舗だけの小さなビルであったが、念願の窓も多く、明るくて使い勝手も良さそうであった。小さいながらもキッチンもあり、ミーティング用の場所も確保できた。
ビルの前は北大路通り、すぐ近くには北山通りの洒落たショップもあるし、5〜6分も歩けば植物園もある。
環境としては抜群であった。

ただ、ひとつ欠点といえば不便なことであった。
地下鉄の北大路駅までは歩いて12,3分であったが、大阪や神戸に行くにはいちいち京都駅まで行くか、出町柳までバスかタクシーで行き、京阪電車という方法だった。実際大阪の本町界隈に行くには京阪の淀屋橋までいって歩くという方法が最も早かったが、それでもやはり、かなりの時間を要した。
京都市内の得意先に行くときもそれは同じで、往復にかかる時間は作業上問題になっていた。

書き忘れていたが、この頃まで私は通勤や得意先への移動にベスパを使っていた。車を所有していたが、仕事で使うとなると駐車場代や維持費など、結構バカにならないと思い、そうしていたが、この北大路の事務所に移ってからはさすがに冬の寒さや雨の日の不便さに負け、ついに車での通勤に切り替え、仕事の移動も車でするようになった。

今では反省しているが、最初のうち裏通りの疎水沿いに違法駐車をしていたが、1週間のうちに3度駐車違反の切符を切られ、あっという間に免停。さすがに近くの駐車場を借りることになった。
移動距離の長さとフォードのトーラスという非常に燃費の悪い車のせいでガソリン代は月4万円近くにもなり、駐車場代と合わせると毎月6万円近くの出費が襲ってきたが、やはり車移動の便利さには勝てないのであった。

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26年が過ぎ、27年目が始まる 11 

5年で烏丸丸太町の事務所を出たのは、家賃が高騰したのと、いいかげん地下というのに嫌気が差していたからだ。
家賃が高騰したというのは、この場所に入ったとき10万だった家賃が5年目には18万になっていたので、これはあまりにも理不尽だということで決断した。
もともとこのビルのオーナーでもある画材店の口利きだったので、保証金無しで入っているのだからえらそうなことはいえないが、あまりにも上がり過ぎなのでちょっと腹が立っていた。

引越をするのが好きになったのはこの頃からかもしれない。

ただ、この頃私の周りにはどんどん問題が発生していて本来なら事務所の引越どころではないのだが、向かってくる困難をパワーに変えるというのが私のポリシーであるので、思い切って全部の問題を受け止めてみた。

まず、一つ目の問題はこの頃丁度実家を改築してそこへ引越をし、一人で住んでいる母親と同居するというタイミングであった。ところがその矢先に母親がクモ膜下出血で倒れ、第2日赤の救命救急センターに運び込まれた。
もうあと数週間で実家の解体が始まるというタイミングだった。
改築中母親は近くの仮住まいで過ごす予定であったが、突然倒れたため、母親の分の引越を私がしないといけなくなった。
それだけでなく、母親は半身不随になる可能性があると医者に告げられ、これはいったいどうしたものかと途方に暮れた。

幸い母親は一命を取り留め日に日に回復していったが、障害が残る可能性はまだ残っていたので、退院後一人で暮らすことはできない。でもまだ同居する家はない。
しかたがないので、家が完成するまでの数ヶ月間母親と同居できるように少し広めのマンションを借り、私の家族もそこへ引っ越した。
つまり、母親の分と自分の家族の分2回の引越をしたのだ。

そしてそのタイミングで事務所も引っ越し、なおかつ実家の改築が完成したらまたそこへ自宅を引っ越すというあまりにも無謀な行動に出た。
なんと1年に4回も引越をしたのだ。
おかげでパンダの絵の入った段ボール箱に1年中囲まれて生活していたような気がする。

母親も無事回復し、事務所も引越を終えた頃にはもうへとへと。
金は使うは、体力は使うは、神経はすり減るはで、身も心もずたずたであった。

そしてそういう想いをして引っ越した事務所は北大路下鴨中通りを少し東へ行った北側の小さなテナントビルであった。

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26年が過ぎ、27年目が始まる 9 

いよいよMAC導入となった。私の人生初のマイ・コンピューターだ。
まず最初に面食らったのは、電源スイッチというものが本体にないということだ。当時はキーボードの上部にあって、それをおすと「ジャーーーン」という音とともに起動するという感じだった。もちろん今のMAcのように「ボワーーーーン」という豊かな音ではない。
起動して現れる画面は今のものよりも当然素っ気ない。アイコンの概念自体は変わっていないが、今のように美しい立体的なものではない。
入っているソフトはIllusutratorとLetrastudio。それ意外にもゲームのようなチュートリアルや当時話題となりかけていたハイパーカードなどが入っていたが、皆目見当もつかない。

マニュアル本も売っていない時代だったので、販売代理をしていた松吉画材の担当者に聞くか、あとは手探りしかない。

まず、マスターしたのはIllustratorではなくLetrastudioだった。
当時、まだIllustratorにはあまりたくさんのフォントが流通していなかったので、フォントの豊富なLetrastudioの方が利用価値が高かったからだ。
このソフトは非常にわかりやすく役に立った。ソフト自体が15万円、フォントが1書体1万5千円。もちろんフォントは20書体くらい入るので合わせて45万円の代物であったが、十二分に元は取れたと思う。
当時、このソフトの最も優れていると思えたことは、エンベローブという機能だった。いまでもIllusutratorには装備されている機能だが、これこそコンピュータでしかあり得ない機能だった。キーボードで打った文字がアーチ型に変形できたり、遠近感があるようにシェイプさせたり、ねじったように変形させたりが自由自在にできた。
当時そういう表現は手描きに頼らざるを得なかったので、どちらかというと面倒なので避けてとうりがちなテクニックであったけれど、アパレル向きのグラフィックでは非常に効果的な手法であった。
特に、デニムのフラッシャー(ヒップポケットについている大きな紙のラベル)やウエストラベル、Tシャツのプリントなどには大きな効果を発揮した。
そういう表現が多用されているだけで、他社から上がってくるデザインとは明らかに完成度が違ったからだ。
当時、うちの事務所は約半分がそういう仕事だったのでこうかは相当なものだったし、この時点で明らかにMAC導入の効果があった。

おかげでそれ以降アパレル向けのグラフィックに関しては順調に売り上げも伸び、快進撃が続いたが、何よりも大きかったのは織ネーム会社からの受注だった。
京都にはもともと織物の産地としての側面からか織ネーム会社の大手が集まっていた。国内上位5社のうち3社が京都にあり、オマケに私の前職も織ネーム会社であったので、その4社からすべて受注を得ることができた。
現在と違い当時アパレル各社はグラフィックを必要とするような仕事、ロゴのデザインや、タグ、ラベル、販促物、そしてプリントやテキスタイル、刺繍の柄やワッペンまであらゆるものを織ネーム会社の持ち込むデザインに頼っていたのでかなりの仕事量を抱えていたこともあり、慢性的なデザイナー不足であったことも幸いした。
当然4社はライバル関係にあるので本来なら同じデザイン会社を使うなどということはないはずである。それでもうちは他社からの注文もあるということをオープンにしても受注を得られるようになった。
事実、最初の頃は各社のプレゼンでうちのデザイン同士がかち合うということもしばしば起こっていたので、さすがにこれはまずいと思い、プレゼンに関しては最初にうちに注文をしてくれたところを優先するというルールを決め、各社に説明した。それでもバブルの後押しもあってますます受注は増えていった。

同時にアパレル会社から直接受注することも増え始めていた。アパレル各社からは主にロゴやプリント、刺繍の柄の依頼が多かったが、この頃から新しいブランドを作るための相談も持ちかけられるようになった。日本最大手アパレルのW社などから直接依頼をもらっていたことが大きく意味を持ち、中小アパレルからそういう相談も来るようになり始めていた。
そうすると今まで受注するだけであった織ネーム各社にとって発注側のブレーンということになり、受注一辺倒であった構図が逆転することもしばしば現れた。
そうするとさらに関係が深まり、お互い持ちつ持たれつのような状態ができあがっていったのだ。

結局このことがうちの事務所の現在の多角化に大きく影響する結果となった。

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26年が過ぎ、27年目が始まる 8 

駆け出しの事務所が、周りの躊躇している老体事務所に、この魔法の箱でアドバンテージを取るためには大きな3つの問題を解決する必要があった。

●資金
ここでもやはりリースという手段しかなかったが、問題はリース会社がOKを出すかどうかであった。幸いコピー機の時のように会社を辞めて1、2ヶ月と言うことはなかったので、保証人さえ立てれば何とか通ると言うことであった。当時、松吉画材に出入りしていたCanonの販売会社を通し、多少の便宜も図ってもらった。

●高価なマシンでどう採算を取るか
何せソフトも含めると車1台分の投資であるから、採算をどう取るかと言うことが課題だった。
おそらく、一般的なデザイン会社の場合ではこの点がまったく解消されないと思われていた。
今になって思えば、この問題を解決できたことが京都デザイン界の中で後発であったうちの事務所が、一気に他社に追いつけた要因であったと思う。
それを解決できた最大の理由、それはうちの事務所が一般的なグラフィックデザインだけではなく、アパレル向けのグラフィックを多く手がけていたことだった。
一般的なグラフィックデザインでは、出力環境、日本語環境が大きな問題であったが、うちの場合、アパレル向けのグラフィックではほとんど日本語を使わないし、印刷のような高精度の出力環境も必要ない。オマケに英語フォントは当時から結構たくさんあったし、今までのようにインスタントレタリングやスクリーントーンを大量に買わなくて済む。
ワッペンや衣料の刺繍にしても、Tシャツなどのプリントにしてもその当時のMAC環境で何とかなったのだ。
現に、MAC導入後インスタントレタリングなどの節約できた費用がリース代を上回るまでにそう時間はかからなかった。
つまり採算を取るどころか、経費節減に大きく貢献してくれたのだ。

●誰が操作するか
ご承知のようにデザイナーというのはコンピュータなどと言う理系の象徴のような機械にはまったく持って無縁であったので、この問題はかなりハードルが高かった。
何せ、コンピュータというのがどれだけのことができるかまったくわかっていないし、それを使いこなしてデザインを制作するなどと言うことなど皆目見当がつかなかった。
そこで私が取った行動は、まずコンピュータというものがどれだけ素晴らしい機械であるかと言うことを実感するために、なんと任天堂のファミリーコンピュータというものを手に入れた。初代のアイボリーとエンジでできた超原始的なコンピュータゲーム機だ。今から思えば誠に恥ずかしい話だが、そんなレベルからの挑戦だった。
そしてそのコンピュータの感想は「驚き」以外の何ものでもなかった。たった数万円の機械と数千円のソフトでこんなに世界が広がるのだから、200万円をゆうに超えるMACならさぞかし素晴らしい仕事ができるんだろうと思った。
そして、その機械を操ることができれば、デザイナーとして一気に先団に取り付けるだろうと思った。
そのためにはまず、自分が使えるようにならないといけない。この機械を誰よりも先にデザインというビジネスの中で使いこなせるようにならないといけないと思った。自分自身で使えるようになりたいと思ったのだ。
私自身が使えるようになれば、スタッフもおそらくスムーズに入っていけるだろうし、使えるようになったスタッフがいなくなっても自分が使えれば問題ない。

そうして3つの大きな問題は見事に解決し、いよいよ導入と言うことになった。

つづく。

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26年が過ぎ、27年目が始まる 6 

macという魔法の箱はデザインのビジネスを大きく変えた。
デザインだけではなく、印刷やテキスタイル、ディスプレイなど私の仕事に関わることすべてを大きく変えた。

その魔法の箱を初めて見たのはテナントビルの地下にある10坪足らずの事務所にいるときだった。
隣にあった画材店のカラーコピーサービスのコーナーにひときは輝いて見えたその箱は、そこそこに車が1台買えるくらいの高価なものではあったけれど、私には万能の武器に見えた。

ただ、当時この魔法の箱にに関しては賛否両論意見が大きく分かれていた。というより、ほとんどが反対意見であった。
この魔法の箱が登場する前にも国内製のコンピュータとソフトによりデザインを表現するというものがあったが、そんなものは箸にも棒にもかからない状態であったので、デザイン界の主に重鎮と言われるような人は一斉に反対した。

私はもちろんコンピュータなど触ったこともなかったし、どんなことができるのかさえ知らなかった。
しかし、その画材店に鎮座していた魔法の箱のディスプレイに映し出される様々な英語フォントやテキスタイルのパターンは私にとって大きな驚きであったとともに限りない可能性を感じた。

しかし、この魔法の箱がデザイン界に普及するまでにはかなりの時間を要したが、それにはいくつかの理由があった。

つづく

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