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25周年目突入前に回想 4 

5つ目の事務所は西大路五条にほど近いマンションの1室だった。
マンションは2度目であったが、1回目のマンションは独立して間無しのワンルームだったので、今回とはまったく様子が違う。
前回は住居用と言うことでごまかしながらこっそりやっていたが、今回は最初から事務所として使うという条件で探したので堂々としたものだ。

3LDKのLDを仕事場とした。残りの3部屋はミーティングルームと作業部屋と休憩室。しかも休憩室は和室なのでたたみ敷きだ。
調子に乗って小さな和箪笥2つといろり風のお膳まで買った。自宅にあったひいおばあさんから受け継いだ茶箪笥も持ち込み照明のシェードも和紙の提灯風のものにした。
ミーティングルームは書籍以外に私のミニカーのコレクションやがらくたがいっぱい並べられていて、訪れるお客さんは一様にあきれていた。
作業部屋はというと物置かというほどいろいろなものが詰め込まれていた。

そして、ようやく釣りとは縁を切れそうになっていたが、その代わりにうずうずとわき上がってきた欲望があった。

ギターと骨董とカメラである。
この事務所に引っ越すまではギターも3本程度であったが、あるギターを1本買ってからというもの次から次へと増えるわ増えるわ・・・。
4つ目の事務所の終盤から中学時代からデュオを組んでいる相棒と15年ぶりくらいにライブハウスというものにでるようになったので(とはいっても小さなプライベートライブ的なところで現在はもう無い北白川のCup of Sunという店)思い切った衝動買いというものをしたのがきっかけだった。結局5つ目の事務所にいる間に15本ものギターが増え、事務所はギター置き場と化してしまった。

私がはまった骨董とは「古伊万里」のことだ。
とはいっても、そんなに高級なものは買えるわけがないので、普段使いできるようなレベルのものである。コレクションと言うよりは普段の食卓や酒器がちょっといい感じになれば・・・という感じだ。
これは淡交社という出版社からでた「暮らしの骨董入門」という中島誠之助氏の本をデザインしたことがきっかけだった。
暇があると骨董屋をのぞき、ネットのオークションで手頃なものを物色し、骨董市にもあしげく通った。
おかげで事務所の台所は古伊万里だらけとなった。

さらにカメラ。
これは仕事でも使う。と、いうのをいいわけにこれもネットオークションや中古カメラ店でかつての名機をあさった。仕事ではデジタルに移行しはじめた頃だったのでそれも格好のいいわけとなり、デジタルカメラやらフィルムカメラがどんどん増えてこれまた置き場所に困ることとなった。

仕事はといえば、相変わらずの筒いっぱい状態が続いていた。
今から思えばそんな状態で数字が上がる訳がない。それ以上がんばろうにもキャパがなければどうにもならないわけで、根本的に考え方を変える時期が来ていることを感じた。
まずはキャパの確保。外注に頼るのをきっぱりやめた。
やはりデザインというものは目の届くところで仕事をしなければろくなことはないこともわかっていたので、移行はスムーズにいけると思った。

しかしココで意外な落とし穴。
人が見つからない。ハローワークはあまりにも決めごとが多く、デザイン事務所の求人など現実的には不可能に近い。有料の求人誌にも出したがまったく反応なし。
デザイン業界は慢性的な不況なので経験者などいくらでもいると思っていたが、これが大きな誤算だった。
ようやく見つけて採用した経験者も半年も経たないうちに病気のため退社、その後はまったく経験者の応募はなかった。いや、あっても50を超えた男性やほとんど新卒と変わらない人材ばかりだった。

いつまでも待っていられないので路線を変更し、新卒1名とほとんど経験はないがアパレルの勉強をしていた女性をなんとか採用し、久しぶりに5人の体制に戻った。
これ以降ずっと経験者の採用には苦労している。

物事というものは連鎖を呼ぶもので、少しでも前向きの行動を起こすと、いろいろな面で前向きなことがわき上がるように起こってくる。このことは25年近く商売をやってはじめてわかったことだ。
少しずつだが、なんとなくヒントが見えだした気がした。
1つの問題を解決すると次に解決すべき問題がはっきりと見えてくる。
1つも問題を解決しないと、いつまで経っても何から解決していいのかわからない。
階段を1段上ると元の位置よりも少し景色が変わる。2段3段と徐々に上ってゆくとさらに景色が変わる。さらに1段づつ上るとその位置からでないと見えなかったものが見えたり、下の段にいたときに見ていたものが違って見えたりする。
きっとビジネスはそういうものだ。
そのことに気がついたのが遅かったのか早かったのかはわからないが、とりあえずヒントのようなものが見えたのだ。

そしてそこからは徐々にではあるが事務所として前進しているのが確信できた。
引っ越しを契機に私自身も殻を破れたような気がした。

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25周年目突入前に回想 3-2 

4つ目の事務所に行ってから大きく変わったこともあった。

まずは通勤。それまでは通勤も納品もすべて愛車ベスパでこなしていたが、事務所の場所がかなり北になったことと、私の年齢から寒さに辛抱ができなくなったので、車での通勤に変更した。
車は長男が生まれたときにFORDのフェスティバという小さいキャンバストップに載っていたが、アウトドア趣味が高じて、これまたFORDのトーラスという5mもある大きなワゴンに載っていた。
そのあともFORDのエクスプローラーという4WDに乗っていたので3台続けてFORDということになるが、これもすべてアウトドア志向によるものだった。
おかげで服もアウトドアブランド中心となり、傍目には決してオシャレなどというものではなかったし、いつでも釣りに行けることを念頭に置いていたので、靴までもがそういったものになっていた。

これは問題である。
私はこれでもメンズのブランドコンセプトを作ったり、ブランドのヴィジュアルを担当したりしているので、こんなことではいけないのだ。

しかしこのアウトドア趣味はこの事務所を引っ越してもしばらくはつづくのだった。

それからもう一つ、大きな変化があった。
とうにバブルが崩壊していたので、それまで多かったアパレル関係の仕事が減り始めた。
だからといって売上を落とすわけにはいかないので、増えたのは印刷関連のデザインだった。
デザイン事務所にとっては当たり前のことではあるけれど、うちは少しよそとは違ってアパレル関連の仕事がたくさんあったので割といいバランスをとれていたが、その図式に若干変化が現れた。

もう一つうちはよその事務所と大きく違うところがある。
広告代理店とは一切仕事をしないということだ。
これは偏見だと思って読んで頂きたいが、私はどうも広告代理店というのが嫌いだ。
デザイン料の低下やきつい仕事環境を創りだしたのは広告代理店だと思っているからだ。
現にクリスタープラザエム時代に近くにあった広告代理店と大げんかをして仕事を一切断ったという事件もあったし、印刷会社からの仕事であってもその代理店からの仕事とわかっていると、きっぱり断っていた。
いまだに代理店の仕事はほとんどないし、これからもきっとないと思う。

そしてこの頃スタッフは私を入れて3人に減っていた。
これは相当きつかった。ただ、この頃守りに入っていたのかなと思う理由の一つはスタッフを増やそうという気になかなかなれなかったことだ。外注に頼るということもはじめてしまった。
スタッフを増やすのはもちろん人件費のリスクがあるし、人が増えると場所も必要になる。
そうするとハードルがどんどん高くなるのでさらに臆病になってしまう。
今から思うとここの5年間はそういう自分の遠回りをあとになって気づかせてくれる期間だったのかもしれない。
こういうハードルを越えることの大切さとしんどさを身をもって感じた期間だったのだと思う。

ただ、やはり北へ行きすぎた。
得意先に行くのもかなりの距離があるし、大阪や神戸に行くにも時間がかかる。
ビルもかなり古かったので今ひとつ満足いかない。

やはり引っ越そう!と、5年たった頃に思った。
今度は靴を脱いでゆっくりと落ち着いて仕事のできるマンションがいいかもしれない。と、思った。

そう思い出すともう辛抱が効かない私は、さっそく部屋探しをはじめるのだった。

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25周年目突入前に回想 3 

4つ目の事務所は北大路の下鴨中通りを少し東の北側。鳥匠という鳥料理屋の3階だった。

クリスタープラザエムをでた理由は
●手狭になった。
●何となくアウトドア志向になってきたのでもう少し環境のいいところに行きたい。
●地下だったので朝も昼も同じ景色だし、台風が来ても気づかない。
●家賃が上がった。
と、いうことだった。

お客さんが来ても、部屋の片隅で商談するのもどうかなという気もしたし、炊事場も狭いのでお茶もろくに入れられなかったので思い切って引っ越すことにした。

今回は縁もゆかりもない持ち主だったので保証金も払い、新しい家具も買った。
たまたま知り合いの事務所が廃業するというので一部紙用の引き出しや書籍もいただいた。
すごく安物ではあったが、商談用にテーブルといすも用意し、スペースもとれた。
この頃には資料もかなり増えていたので、エレクタータイプの本棚も用意した。

クリスタープラザエムの時よりずいぶんと事務所らしくなったし、その前のソワクレール伊吹の時とは比べものにならなかった。
独立して7年が経過していたが、スタッフも4名になり、相変わらずアルバイトもしょっちゅう来ていた。

ただ、この頃私は、大きな出来事が3つも覆い被さっていたので、正直ふらふらになっていた。
一つはこの事務所の引っ越し、二つ目はまったく同じタイミングで実家を建て直し、自宅も引っ越す。3つ目、これがかなり参った。
母親がクモ膜下出血で倒れ、救急車で入院のあと半身不随の可能性があるといわれた。
なんとこのタイミングで立て直す予定の実家に住んでいた母親が倒れたので、母親不在のまま実家の母親の分まで引っ越しをしなければならなかった。
というのは、実家をいったんつぶすので、仮住まいが必要となるが、母親が退院してくると一人にしておけないので、私の家族も一緒に仮住まいする必要があり、そのときのために少し大きめの仮住まいを借りて、母親が退院してきても大丈夫な状態にして置かなければならなかった。

ということは、
●事務所の引っ越し
●つぶす実家から母親の分を仮住まいへの引っ越し
●私の家族がその仮住まいへの引っ越し
●実家が完成したら仮住まいから新居への引っ越し
と、たった半年ほどの間に4回も引っ越しをしなければならなかった。
おかげで、パンダの絵が入ったダンボール箱に囲まれる生活がしばらく続くこととなった。

思えばこの4つ目の事務所は我慢の5年間であった。
私自身ひょっとすると何か守りに入っていたのかもしれないが、どうも後ろ向きな自分がいたような気がする。
独立して7年が過ぎ、何となく軌道に乗った気がしなくもないが、かといって漕ぐのをやめるとすぐに倒れてしまう不安定な自転車のような気もしていた。

自分の趣味がアウトドア志向になっていたのも原因かもしれない。
何かあくせくした生活に嫌気がさしたのか、子供と一緒に外で楽しむことの楽しさを知ってしまったためか。

釣りを20年ぶりに再開したのも原因の一つだ。
釣りはいけない。おもしろすぎる。
私はギターを弾いたり、競馬を見たり、骨董を眺めたり、水槽を作ったりと趣味はたくさんあるつもりだけれど、何がいちばんおもしろいかと尋ねられたら、おそらく「釣り」と答えるだろう。
釣りは人生を狂わせると言うが、それは本当だと思う。
四六時中釣りのことしか考えられなくなる。仕事よりも釣りが優先になって釣りのために時間が廻るようになってしまう。現に、この頃の慰安旅行も釣りのできるところが3年もつづいたし、事務所には作りかけのルアーがぶら下がっていた。机の上はフライを巻いたときの羽根のくずが散らばっているし、本棚には釣りのDVDが並んでいた。

おまけに、仕事上も大きなミスやスタッフの不祥事、母親の入院など逆風だらけだった。
なんとかしてそういう状態から抜け出そうともがいている自分が自覚できたし、その方法は皆目見当がつかなかった。おまけにベテランのスタッフが出産で卒業したので一気にしわ寄せが残りのスタッフにのしかかった。

なんとかしないといけない。
そういう想いの中でもがいていた5年間であった。

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25周年目突入前に回想 2-3 

クリスタープラザエム


そしてもう1つ大きな出来事は、デジタルの導入だった。
当時はどちらかというとデザイン界ではデジタルに関して消極的な考え方が大勢を占めていた。
「結局手でやる方が早い。」とか「いかにもデジタル的なデザインになってしまってどれも同じに見える」とか「文字組が汚い」「日本語のフォントがほとんどない」などといったことが主な理由だった。
しかも、価格も半端なものではなく、だいたい車1台と同じレベルであった。
それを焼却できるほど使い道がないと思われてもしかたがなかった。
その上、出力環境も整っておらず、画面の中でデザインしてもそれを相手に見せる手段がないといった今では信じられないようなレベルの低いものだった。

私はそれまでコンピューターというものを触ったこともなかったし、だいたい何ができるのかもまったくわからなかった。ただ、元来好奇心の強い性格が幸いしてかMACというものに興味を持った私は、隣の画材店にデモで置かれていた1台に大きな可能性と世間のデザイン事務所を出し抜いてやろうという企みを感じていた。

幸いうちの事務所では、当時からTシャツのプリントやデニムのフラッシャーなどの付属品、アパレルブランドのグラフィックなど日本語とは関係のない仕事が多くあったので、日本語の不自由さはあまり関係ないし、相手にデザインを見せるときは小さなシルクスクリーンを使ってカラーカンプを作るという方法をとっていたので、そのシルクの版下を作るには十分な精度の出力も可能だった。

いろいろと頭の中でのシミュレーションはほぼかたまっていたのだが、周りの意見は私の考えとまったく逆だったし、何よりまず資金が問題だった。
当時、開業してまだ5年にも満たない状態でコピー機と暗室のリースを抱えていたので、もうリースの枠はないも同然。手持ちの資金も長男が生まれて間無しであったので多少の余力は残しておきたかった。

こういうときの私の強運さは自分でも不思議なときがある。
なんと高校時代生徒会の役員をしていた仲間が事務所のすぐ近くの商工会議所に勤めており、中小企業向けの無担保融資があるという話を持ってきた。
そのときまっすぐな道が私の前に現れた気がした。
早速商工会議所の会員になり、審査を受け、無事に融資にこぎ着けた。

そのとき導入したMACは
本体 Machintosh II 本体120万円
メモリ フル装備でたったの8MB 1MBが5万円で40万円
ハードディスクは20MB しかも本体とは別売で20万円
モニター 13インチカラーモニタ26万円
ビデオカード 8万円
さらにアプリケーション
イラストレーター 9万円
レトラスタジオ 15万円
フォント 1書体15000円を20書体で30万円
締めて約270万円。

出力は隣の画材屋のレーザープリンターとQMSというインクリボンのカラープリンターにアップトークで直結し、うちの事務所から出力ができるようにした。

最初、操作に慣れるのにかなりの時間を要したが、幸い今のマックに比べマック自体のレベルが低かったので、マックに進化とともに自分のスキルも進化してゆけば良かった。
あとになってみれば、よそよりも先に導入した分のアドバンテージは絶大なものであったし、実際効果はてきめんであった。

当時マックを納入していたのはCanon系のディーラーであったが、そこの担当者がいうには、個人事務所では京都で最も早い導入であったし、実際に業務で使用しているのはうちだけだということだった。

実に爽快だった。京都のデザイン界をまんまと出し抜いた気がしていた。
おそらくこの出来事がうちの事務所の歴史の中で最も大きな決断であり、英断であった気がする。
周りのデザイン事務所や印刷会社にマックが入るまでにはそれからまだ3年以上を要したし、よそにはできないデザインテクニックやカンプの提出も事務所にとって大きな武器になった。

今では1台10万円程度で手に入るマックだが、コイズミデザインファクトリーにとっては大変大きな意味を持つ道具として、感謝せずにはいられない。

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25周年目突入前に回想 2-2 

クリスタープラザエム

25周年目突入まで10日を切った。
このクリスタープラザエムにいたのは、たったの5年間ではあったけれど、うちの事務所にとっては大変大きな5年間であった。

まず最も大きいのは、法人化したことだ。
実は法人化をするまでは、コイズミデザインファクトリーという名前ではなかった。
前書きがCREATIVE WORKS & TOTAL PLANNING,
そして屋号が単純にKOIZUMIだった。

自分で商売をしたことのある人なら誰でもおわかりだと思うが、商売をして儲けた分は必ず税務署に申告する義務がある。それを怠ると脱税、となるわけだ。
もちろん私も独立した翌年にはちゃんと税務署に行って申告をしたのだが、この手続きがけっこう面倒でややこしい。しかも最初のうちは白色申告というので良かったものが、何年かすると青色申告にしなさい、と税務署から進められる。もちろん拒んでも良いのだが、なんか拒むというのはどうも後ろめたい気もするし、やはり少しずつ事務所として進歩したい気もあるので、渋々承知することになる。

ところがこの手続きがさらに難解で、到底私のアタマに負えるものではないのだ。
さあ、どうしたものかと思っていたところに、中学時代からの友人が税理士を目指して親戚の税理士事務所に勤めることになったという。
渡りに船とはこのことで、私は即刻彼に相談し、申告業務を親戚の税理士にお願いした。

そうこうするうちに、そろそろ法人化を考えた方がよいとの進言を受け、めでたく法人化することとなった。
そこで登記をするに当たり、事務所の名前をそのまま踏襲しようとしたのだが、たまたますでに使用されていたために、新しい名前を考える必要があった。

ない知恵を絞って考えたのが「コイズミデザインファクトリー」だった。
よく自分の事務所に自分の名前を入れない人がいるが、私には理解できない。事務所の名前と本人の名前の両方を覚えてもらわなければならないからだ。
そして「デザイン」という言葉は外せない。と、なると「コイズミデザイン」?「コイズミデザイン事務所」?「コイズミデザインスタジオ」?「コイズミデザインオフィス」?ん・・・・・・・・。
何かしっくりこない。語呂が悪いのかそれとも何か他に理由があるのか。
「コイズミデザインららららー」的な感じがいいと思うのだが、なかなかいいのが浮かばない。

そのとき、ラジオから流れてきたのが「C&C MUSIC FACTORY」であった。
・・・・これだ。「Koizumi Design Factory」、いいじゃないか!
略したときも「KDF」。かっこいい。
と、いうようなけっこういい加減な決め方で現在の名前になったのである。

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25周年目突入前に回想 2-1 

クリスタープラザエム

そうして私の事務所は烏丸丸太町下がるのクリスタープラザエムという松吉画材所有のテナントビルに移った。
当時はすべてがまだアナログの時代であったので、画材屋が隣にあるというのは大変便利なことではあった。
今では画材屋の仕入れなどゼロだが、当時は毎月20万円以上の支払いがあったし、このビルに入ってからはさらに増えて、多いときには50万以上もの支払いがあった。
それを思うと今のデジタルの時代になって、費用的なメリットは大きいなとつくづく思う。

少しではあるけれど本や荷物も増えていたので、今回の引っ越しはレンタカーでトラックを借りることにした。
もちろん大きなトラックなど運転したこともなかったので、わざわざ軽トラを借りたのだけれど、当日レンタカーやへ行くと向こうの手違いで車が手配されておらず、すぐには用意できないと言われる始末。
今日が引っ越しであるのにどうしてくれるんだ!と、若気の至りでうなってしまったので、向こうもなんとか手を尽くし、2トン車を1台用意したので、今まで運転したこともない大きなトラックを借りて引っ越しを強行することとなった。

このビルには、1階に洋食屋、地下にパスタ屋があったので昼飯には苦労はなかったのだけれど、やはり飲食店が近くにあるとゴキブリや小さなはえが多いのに悩まされた。
ただ、地下鉄の駅も徒歩30秒、バス停はいくらでもあるし、飲み屋や喫茶店も山とあったので便利さでは今まで借りたことのあるの事務所の中でも最高だった。

クリスタープラザエム

引っ越して間無しの事務所内。広さは約10坪。プラス、トイレと炊事場(キッチンと呼べるようなものではなかった。)、そして物置。
ココでもやはり本棚は安物のカラーボックスを積み上げたものだった。
ただ、作業用の机は4人分用意できたし、念願の暗室(おくに見えるブルーの箱状のスペース。当時のデザイン事務所では必修)もおくことができた。
狭いがミーティングをする場所も確保できた。

前のワンルームマンションに比べると、かなり大きな進歩であったし、その分高揚感も相当なものだった。
事務所の横のパスタ屋に入っていく人たちが、いったい何の事務所なんだろう・・・というような目で見ていくのも、何か心地よかったし、名刺に書く住所が、今までよりもワンランクもツーランクも上がったように見えた。
ようやくデザイン事務所として世間に認知してもらえるような気がしたし、事実飛び込みで銀行が営業に来るようにもなった。

この頃、ささやかで敗北感が大きいものではあったけれど、初めての慰安旅行にも行けた。
メンバーも4名になり、アルバイトも頻繁に呼ぶようになって、一気に事務所に活気が出てきたのもこの頃だ。
さあ、いよいよという感じが自分の中にわき上がってくるのがはっきりと確認できたし、何よりも世の中がバブル1色に染まった頃だったことが大きかった。

今の若者はこのバブルというものを経験していないと思うが、あんなものは経験しない方がいいかもしれない。
何かと言えばすぐパーティー。クリスマスともなろうものなら街中がパーティーのような状態であった。
とくに、うちのお得意先はアパレル関係のところが多かったこともあり、クリスマスパーティーと忘年会で12月はほとんど仕事にならないような状態であった。

いまでも忘れられないことがある。
大阪へ仕事で行ったときのことだ。まだ、ヒルトンや富士フイルムのビルが建設中でディアモールさえなかった頃だ。私は打ち合わせをおえ、京都の事務所に戻ってまだまだ仕事が残っていることもあり、雪のちらつく12月の大阪駅前第3ビルあたりを足早に駅に向かっていた。
ちょうどバブル期のクリスマスイルミネーションが最盛期の頃であったのであたりはたいそう華やいだ雰囲気だった。丸ビルの横を通り過ぎようとしたときだった。私とほとんど同年代のビジネスマンのグループやカップルがクリスマスパーティーの真っ最中で、路上のイルミネーションをバックにシャンパンを飲みながら記念撮影をしている場面に出くわした。こっちはこれから京都まで帰って山ほど残った仕事をこなさなければいけないときに、そのうかれぽんちな様子は正直きついものだったし、私は今になってもそのときの光景を忘れることはない。

余談になるが、景気が悪くなって会社にリストラされたり、居場所がなくなった社員のことがニュース番組などで取り上げられることが良くあるが、そういうときに私は同情するような気持ちになったことがない。会社が調子のいいときには自分のやったこと以上の成果をもらえるのだから、会社が調子の悪いときにはじかれるのは当たり前のことだ。少しでも自分で商売をしたことがある人であれば当然の感覚だと思うし、自分がしてきたビジネスの価値を評価されるのは商売の基本中の基本である。

なにはともあれ、新しい場所でのコイズミデザインファクトリーは、世の中の好景気にも助けられ、順調な滑り出しを見せたのだ。

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25周年目突入前に回想 1 

ソワクレール伊吹

初めて借りたオフィス。24歳の4月に借りた。
とはいってもごく普通のワンルームマンション。家賃は5万2千円で8畳の一般的な間取りだ。
この部屋を借りる前は自宅の自分の部屋が事務所だった。
6畳の和室にベッド、デスク、本棚、ステレオ、そしてなんとコピー機まであった。
狭いに決まっている。ましてや独立したのは12月1日だったのでストーブも必要だった。
もちろんその当時は電話もダイヤル式の黒電話、ファックスや留守番電話さえない。しかも、自分の部屋にはなく(自宅なので当然か)だいたいおきまりの玄関、下駄箱の上に鎮座していた。
電話が鳴ると2階から駆け下りてきて受話器を取るのだ。
自分が在宅の時はまだ何とかそれでもやっていけるが、大阪や神戸への出張は独立当初からあったので、半日も外出するとまったく連絡が取れない。
その当時は家に祖母がいたので一応電話番を頼むのだけれど、だいたいがすかたんなことを聞いているので当てにできない。

これでは商売にならんと、一念発起してこの部屋を借りた。そして留守番電話やファックスもつけた。
ただ、この時やっぱり世間というのは厳しいものだなとつくづく感じた。
私自身は立派に独立しているつもりでも、世間から見ればプータローと何ら変わりいはない。会社にも属さず、
収入の保証もない、職業はと聞けばフリーのデザイナーだという。
こんなやつに簡単に部屋を貸すほど世間は甘くなかったのである。
幸い、当時はまだ母親が現役で働いていたので、保証人になってもらい、なんとか契約をクリアした。

ソワクレール伊吹

ただ、一番の問題は、この部屋は当然のことながら住居専用である。
しかし、私はここで仕事をするのだ。
そのことをまったく隠すと嘘つきになってしまうので、「私はフリーのデザイナーですから、部屋で仕事をすることがあります。」と、ものすごく曖昧な表現を使っていた。

この当時から369は私の縁起担ぎであったので、部屋も303を選んだ。
5階建てのエレベーターもないワンフロアに4部屋の小さいマンションだったので306や603といった部屋は存在しなかったので303にしたのだ。

引っ越しは現在私のfacebookの友達の中にいる千野君が車を出して手伝ってくれた。

ソワクレール伊吹

なぜか内部はこんなピンぼけ写真しか残っていない。
机の横の本棚が写っているが、安物のカラーボックスを積み重ねたものと学生時代から使っていたスチールの棚が一つ。並んでいる本といってもほとんどがファイルでデザインの資料などほんの数冊しかない。
私は今、人よりたくさん本を買っていると思う。
それは、会社勤めの頃と独立して間無しのこの頃のコンプレックスから来ているのかもしれない。
だから今ではスタッフから「○○の本が欲しい」というリクエストがある場合は、まず拒むことはない。
会社に本を買ってもらえないデザイナーの気持ちが痛いほどわかるからだ。

最初はいった当時は備品もほとんどなかったので、ちょっと仮眠をしようと思っても、枕や布団は当然無い。仕方がないのでキッチンマットを敷いてスリッパを枕に寝ようとしたことがある。ただ、それではあまりに寒かったのでコートを布団のようにかぶってしばらく辛抱していたが、耐えきれずに自宅へ帰ったこともあった。
なぜか、そういうつらかったことは鮮明に覚えている。

ここへは自宅から当時の愛車ネイビーのベスパで通った。
信じてもらえないかもしれないが、今ほどコンビニもなかったので昼食は決まって近くのうどん屋かラーメン屋だ。うどん屋の方はなかなかおいしい店だったが、ラーメン屋の方はまったくだめな店だった。

結局この部屋にはたった1年半しかいなかった。
徐々に私がここを事務所代わりにしていることがばれだしたことと、スタッフが3人になってあまりにも狭くなったからだ。

ちょうどそのときにいつも仕入れていた画材店の地下のテナントが空いているので入らないか、という話が来た。
今度は地下1階地上7階建ての立派なオフィスビルだ。
ただ、そういうビルは普通、保証金というものが何百万も必要なので最初躊躇したが、その画材店の計らいで保証金無しの家賃15万という破格の条件で入ることができた。
約3倍の家賃になるが他に選択肢はなかったので、思い切って引っ越すことにしたのだ。

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