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2012年反省 

2012年の反省。

●淡水の水槽が手入れ不足で沼のようになってしまった。
●海水の水槽がヒーターの故障でサンゴが全滅してしまった。
●ギターの弦交換があまりできなかった。
●ギターの練習があまりできなかったので、一度も触っていないギターがあった。
●ブログの更新回数が目標に達していない。
●写真を撮りに行くことが少なかったので、一度もフィルムを通さないカメラがいっぱいあった。
●入らない靴や服の整理ができなかった。
●ダイエットの目標に達していない。
●事務所のHPや関連のHPをリニューアルできなかった。
●京都のデザイン業界活性化のためにいろいろな方法を考えたが、行政や商工会議所に頼ったのは間違いだった。
●どうにもならない業界の活性化よりも自分の事務所のことを考えたほうがましだということに気づくのに時間がかかった。
●運動不足。

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25周年に回想 8 

パデシオン西大路

マンションが完成し、引っ越したのは9月だった。
今回は分譲なのでもうそうそう引っ越すことはできない。今までのように5年周期の引っ越ししたい病も封印だ。
今回の引っ越しで重要視したのは次の点。
●今までよりも広く、最低6人が仕事をできるスペースがある。
●大阪や神戸へのアクセスが便利。
●京都の得意先各社へのアクセスも便利。
●ちょっとした商品撮影くらいはできる広いベランダ。
●見晴らしのよい高さ。

結果的にほぼ満足のいく物件に巡り会えたことも決断の後押しをした。
夜ともなれば、なかなか夜景も楽しめるし、8月には遠くに宇治の花火も見える。
遠くの丘陵の桃山城が夕日に照らされる様子や、その夕日が西山に沈む様子も美しい。

パデシオン西大路

思えば、ここに引っ越してきたとき、自分のデザイナー人生の完成形を思い描いていたのかもしれない。
この場所で人数も6人程度、スタッフの成長に合わせ徐々に自分は一線から勇退する・・・・。
そういうのを思い描いていたように思う。

しかし、現実は違っていた。
といっても悲観的ではない。
私の特性というか悪癖というべきか、現状で我慢できない病がむくむくとせり上がってくるのだ。

気がつけば人数は8人。すでに狭さが問題となっている。
神戸や大阪には大変便利だし、京都の得意先にもアクセスは悪くないが、なんとなく洛外感がある。

そして何よりも決定的に違ってきたのは、私のデザインビジネスに対する考え方だ。
ここに来たときの私の事務所コンセプトは「SENSE OF VALUE」。デザイン事務所としての「価値観」だった。
現在の会社案内にもそう書いている。
http://www.koizumi-design-factory.com/concept.html

もちろん今もその考え方を否定しているわけではないが、それだけでは足りないと思い出した。

これからは「コンテンツ」を持ち、それを「発信」できる事務所にならなければいけないと思っている。
そうがどういうことかを説明し出すと長くなるので別の機会にしたいが、とにかく受動的でなく能動的でないといけない。
「SENSE OSF VALUE」という考え方がどちらかというと受動的であったが、これからは「受」と「能」のバランスが大事だし、「能」の部分こそが自分自身が考えるデザインビジネスではないかと思い出した。

よくわからない抽象的な表現であるが、実のところ私自身もまだぼんやりしている。
それを解消するために、この年末、自分自身のための企画書というものを生まれて初めてつくり出している。
来年は50歳を迎えるということもあるし、自分自身のデザイナー人生もそろそろ完成形を描きたい。
ただ、あまりカンタンに達成できる設計図ではそのあとまた次の課題が現れてくるので、かなりハードルの高いものとしようと思う。
達成できるかどうかはわからないが、目標ができたときの私は強い。と、思う。

その企画書を年始にスタッフや近い関係者に見せ、逃げ場をなくした上で走り出そうと思う。

この回想もここで結びたいが、5年後の30周年の時にどんなことを書いているか、自分でも楽しみにしたと思う。

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25周年に回想 7 

西大路五条の事務所はけっこう居心地が良かった。
五条通は近かったが、たった1本中に入っているだけでかなり静かになるものだ。
ただ、5年もすると何となく引っ越したくなるのが私の習性のようで、ここも例に漏れずそうだった。

何となく事務所の進むべき道が見えてきて、うまく回り始めたのはいいが、今度は若干人手が足りないような気がしてきた。取り立てて急を要するものではないけれど、いったん思ってしまうとバックが効かないのも私の習性のようだ。
ただ、この場所では5人体制が限界だ。
物置兼作業部屋もギターとカメラがあふれてきた。
賃貸なので和室をフローリングにしてデスクを置くというわけにもいかない。

引っ越したい・・・・。

もっと広くて、眺めのいいところに行きたい・・・・。
そのうえ私も当時すでに40を超えていたので、そろそろ自分としての完成形のようなものを求めだしていた。

ただ、これより広い賃貸マンションなどそうそう見つからないし、事務所使用も許されるところは少ない・・・・・。
んん・・・・・・・。

人間このように前向きに悩み出すときにはよくしたもので、必ず何か次のステップへのヒントが見つかるようになっている。と、私は思っている。
そこでふと目についたのが新築マンションのチラシであった。
そう、買うという手もある・・・・。
しかし、そんな金はとうていない。
ローンが組めて、事務所使用が許されて、今よりも広くて、大阪や神戸に行くのも便利で、駐車場にも困らない・・・・・。ムシが良すぎるか・・・・。

しかし、ものは試しだ。この条件をぶつけてみてOKがでれば、いろいろな問題が一気に解決する!と、思った。

今までもそうだったが、人を増やそうと思うと、必ず今の場所では狭いという問題に当たる。もともとそんなに余裕のある場所を借りるわけもないので、当たり前だ。
そうすると人を増やすには場所も変わるということがセットになってしまい、よけいにハードルが高くなる。
ただ、ローンを組んだとしても今の家賃よりもおそらく1ヶ月の支出は少ないだろうし、便利になるし、広くなるし、眺めも良くなるし・・・・。

人生うまくいくときはそんなものだ。
建築会社も銀行もすべてOKがでた。
何年か前にmacを導入したときのことを思い出した。私の前に道ができた感じを再び得た。

そうなると頭の中は完全に前を向く。そこが私の単純なところでもあるが、前に行かなければじり貧を待つだけだと思うタイプなので仕方がない。

一気に話は前に進んだ。そういうときの私を止める人はいない。
契約も一気に済ませ、808号という縁起のいい部屋番号を得た。
あとは半年後のマンションの完成と引っ越しを待つばかりだ。

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25周年に回想 6 

この西大路五条の事務所では、もう一つ大きな出来事があった。
母が他界したことだ。
私の父は私が18の時に他界しているので、これで両親を亡くしたことになった。

実は私がこの仕事に就くきっかけは、両親の影響によるところが大きい。

父は私が生まれたとき職業欄に「とび職」と書いてある。大工の見習いみたいなものだったらしい。
私は父が22歳の時の子なので、当然まだ一人前であったとは思えないが、私が子供の頃よく物置や盆栽の台など今でいうDIY的なことをしょっちゅうしていた。本当は宮大工になりたかったらしいが、家庭環境が理由で無理だったらしい。昭和40年代になると空前の友禅景気が京都の街に吹き荒れたため、親戚の紹介で友禅の染色工として再スタートを切った。ただ、いわゆる高級品の手描き友禅ではなく、図案家が描いた柄をスクリーンによって再現してゆく型友禅であったため、ことある毎に私に「この柄を考える人の方にならないとだめだ。」と言い聞かせていた。
そして私が高校3年の梅雨に病死した。

母は絵がうまい人だった。まだ幼かった私に広告の裏や包装紙の端っこに女の子や動物の絵を描いては見せてくれた。本当は美大に行きたかったらしいが、高校にも行けない経済状況の家であったためそれもかなわず、中学を卒業してからろうけつ染めのや父と同じ工場で友禅工として働いた。
ただ、絵がうまかったり手先が器用であったことから、型友禅が衰退したあとも作家物の帯や着物に螺鈿を施したりハンドピースでぼかした柄を描いたりと、他の職人にはできないことができたため、友禅がまったくだめになった以降も何とか仕事を続けることができていたようだ。

そんな二人の間に生まれた私は、小さいときから「絵の上手な子供」として周りにおだてられながら育った。小学校の卒業文集にはすでに将来の夢として「競馬のトラックマン」か「商業デザイナー」とはっきりと書いている。(当時はグラフィックデザイナーという言い方もまだ一般的ではなかったし小学生の私はそんな言葉さえも知らなかった。)

当時、我が家は貧しかったので、おもちゃをねだるというようなことは一切しなかったが、近所に住んでいた1つ上の小学1年生になるいとこが持っていた学校の絵の具セットが羨ましくて仕方がなかったので、「絵の具が欲しい」とねだってしまった。普段はおもちゃなどほとんど買ってくれなかった親だったが、絵の具の時だけは何も言わずに12色の水彩絵の具を買ってくれた。そのときのうれしさはきっと一生忘れないと思う。いまだにその文房具店や置いてあった棚の位置、絵の具のパッケージのデザインまで鮮明に覚えているのが、自分でも不思議だ。

その後なんの疑いもなく、デザイナーになる道を選んだ私だが、いまだにそれが親の企みにまんまとはまった結果なのか、それとも自分自身で適正を判断してのことなのかはわからない。
おそらくあの世で二人して、日々デザインに悪戦苦闘する我が息子の姿を見ながらほくそ笑んでいるに違いない。

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25周年に回想 5 

ついに25周年を迎えた。
この回想も終盤になってきた。
西大路五条の事務所では順調に業績も伸び、事務所としての仕事の幅もさらに広がっていた。

最も大きなことは、「ものづくり」の難しさやうまくいったときの喜びを知ったことだ。
もともとグラフィックデザインというものは、だいたいの場合「ものづくり」の様々な過程の中の1セクションでしかない。
たとえば、そのものの商品企画はAさんが担当し、パッケージデザインはBさんがデザインし、カタログやちらし、ポスターはCさんが受け持つ、そして展示会のディスプレイや店頭のPOPはDさんが・・・・と、いうのが普通だ。
しかし、このやり方ではたして最初の商品企画のコンセプトやものづくりに対する思いが、エンドユーザーにちゃんと届くのだろうか。
幸いうちの事務所ではブランドの立ち上げから商品企画、そしてそのあとにつながる様々さツールのデザインまで広い範囲の仕事をいただいている。
ただ、それでも最初のコンセプト作りからすべての過程を続けて受け持っている事例はそうそうない。
もちろんそれには生産背景や印刷会社の都合、先方の仕入れ環境、そして何よりうちの能力など様々な障害があって、なかなか一気通貫で最初から最後までを任せてもらえるわけではないからだ。

しかし、もしそれがもっとたくさんの事例で実現できたら・・・。
それはうちの事務所にとってどこにも負けない大きな武器になると思うようになった。

もちろんメーカーサイドはその道のプロであるわけなので、それと同じレベルでというのはなかなか難しい。ただ、今以上にもっと先方のものづくりに踏み込んで、先方の人たちと同じ目線に近づいたり、思いを理解しようとすれば、その後に続いてくる様々なセクションのデザインは実にスムーズに進むのではないかと考えた。

そういう意味で、西大路五条の事務所では
●手芸メーカーの様々なデザインや企画
●ゴルフブランドの企画・デザイン
●宗教関係品メーカーの様々なデザイン
●アパレルメーカーのブランディング
など、理想の作業フローを実現できそうな仕事に巡り会えた。

スタッフの入れ替わりや慢性的なデザイン不況に悩まされながらも、この西大路五条の事務所にいた5年間は私にとって事務所運営の道が見えかかった貴重な時間であったように思う。

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