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25周年に回想 6 

この西大路五条の事務所では、もう一つ大きな出来事があった。
母が他界したことだ。
私の父は私が18の時に他界しているので、これで両親を亡くしたことになった。

実は私がこの仕事に就くきっかけは、両親の影響によるところが大きい。

父は私が生まれたとき職業欄に「とび職」と書いてある。大工の見習いみたいなものだったらしい。
私は父が22歳の時の子なので、当然まだ一人前であったとは思えないが、私が子供の頃よく物置や盆栽の台など今でいうDIY的なことをしょっちゅうしていた。本当は宮大工になりたかったらしいが、家庭環境が理由で無理だったらしい。昭和40年代になると空前の友禅景気が京都の街に吹き荒れたため、親戚の紹介で友禅の染色工として再スタートを切った。ただ、いわゆる高級品の手描き友禅ではなく、図案家が描いた柄をスクリーンによって再現してゆく型友禅であったため、ことある毎に私に「この柄を考える人の方にならないとだめだ。」と言い聞かせていた。
そして私が高校3年の梅雨に病死した。

母は絵がうまい人だった。まだ幼かった私に広告の裏や包装紙の端っこに女の子や動物の絵を描いては見せてくれた。本当は美大に行きたかったらしいが、高校にも行けない経済状況の家であったためそれもかなわず、中学を卒業してからろうけつ染めのや父と同じ工場で友禅工として働いた。
ただ、絵がうまかったり手先が器用であったことから、型友禅が衰退したあとも作家物の帯や着物に螺鈿を施したりハンドピースでぼかした柄を描いたりと、他の職人にはできないことができたため、友禅がまったくだめになった以降も何とか仕事を続けることができていたようだ。

そんな二人の間に生まれた私は、小さいときから「絵の上手な子供」として周りにおだてられながら育った。小学校の卒業文集にはすでに将来の夢として「競馬のトラックマン」か「商業デザイナー」とはっきりと書いている。(当時はグラフィックデザイナーという言い方もまだ一般的ではなかったし小学生の私はそんな言葉さえも知らなかった。)

当時、我が家は貧しかったので、おもちゃをねだるというようなことは一切しなかったが、近所に住んでいた1つ上の小学1年生になるいとこが持っていた学校の絵の具セットが羨ましくて仕方がなかったので、「絵の具が欲しい」とねだってしまった。普段はおもちゃなどほとんど買ってくれなかった親だったが、絵の具の時だけは何も言わずに12色の水彩絵の具を買ってくれた。そのときのうれしさはきっと一生忘れないと思う。いまだにその文房具店や置いてあった棚の位置、絵の具のパッケージのデザインまで鮮明に覚えているのが、自分でも不思議だ。

その後なんの疑いもなく、デザイナーになる道を選んだ私だが、いまだにそれが親の企みにまんまとはまった結果なのか、それとも自分自身で適正を判断してのことなのかはわからない。
おそらくあの世で二人して、日々デザインに悪戦苦闘する我が息子の姿を見ながらほくそ笑んでいるに違いない。

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