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景観は理念とモラルで守るもの 

最近、京都の景観条例についての不満を方々から聞く。
「基準がよくわからない」「お金がかかる」「店の個性が出せない」「業種によって損得がある」など様々。
そういう意見はたいていもっともな話で、デザインする側も疑問が多い。

最もいけないのは「景観を守る意識は持っているのに、なぜこんなことまでだめなの?」という積極的景観保存派の人ほど損をして、「どうせ役所仕事だから適当に逃げればいい」という人が逃げ得になるという構図だ。

ただ、やはり現状の景観条例は矛盾が多すぎる。これでは守ろうという意識より、守らされている感が勝ってしまう。
元来景観というのは街そのもののデザインであるから、基準を設けること自体が難しい。と、いう考えの基にたって考えているように思えない。
誰がこの条例の草案を作ったかは知らないが、これではあまりにも役所的でSENSEが感じられない。

景観を守るにはそこの住民自体が意識を持って取り組み、景観を守る意識自体も育てていかなければならないし、それを後世に引き継ぐことが大切だ。
つまりそこには「理念」と「モラル」が必要であり、規則はその理念とモラルを形にしたものでなければならない。
「理念」と「モラル」がない規則には「納得」がないし「不平等」や「形骸化」が残るだけだ。
もちろん「理念」と「モラル」を求めてもはみ出す人もいる。それは反社会的分子であり、どんな状況でも完全に排除することはできない。

色がこうだとか、面積がどうだとかそういう条件は場所や周りの環境によってまちまちであるべきだし、もしそれを条件で縛るなら、あんな画一化した条件ではなく、それぞれの案件についてもっともっと精査するべきだ。それもできないから中途半端な不公平や形骸化が残っているのだ。

だいたい条例を提唱する京都市自体に景観に対するモラルがあるとは到底思えない。
市バスの車体広告やバス停の広告板は景観に配慮しているといえるのか。
市内のいたる所に掲示されている京都市の様々な広報物は街の景観にそぐわしいものなのか。
車道によくわからないラインをいっぱい引いたり、市役所の前に変なディスプレイがあったり、変な噴水があったり。

そこまで市民に注文をつけるなら今後京都市の新しい建物や改装する建物は全部和式にするくらいの徹底した理念はないのか。

景観を守るということを簡単に考えすぎていないか。

景観を守るためにはまず「理念」と「モラル」が必要だということを
京都市自身が深く理解し、手本を示すべきではないのか。

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